初期石高は 25万2千石 城数8 国力は全国三位です。武将数は最初から多く、これは武将数が絶対的に不足する絶滅戦争版ではありがたいことです。 ゲーム開始 1550年4月 軍船建造5 鉄砲全て購入 伊勢 伊勢長島城の伊勢一向宗が侵略可能な限り必ず尾張の蟹江城を攻めてくるので、敢えて敵を誘い出し、同時に海路を持って600の守備兵に600の兵力の川尻秀隆をぶつける。同時に蟹江城を包囲している一向宗に織田信長の部隊をぶつけて経費削減。政治が10あるので序盤は尾張に置いておきたいのです。 蟹江城守備兵も、 「出撃 → 1ターン目で撤退」 で無理なく削減。 尾張 犬山織田家には当主の2,000の部隊をぶつける。これで当主の経費も削減。 三河 佐久間信盛隊を兵力2,000に増強して突撃。消耗をはかる。 1550年5月 三河 刈谷城に2,000の兵力をぶつける。尾張は4部隊で清洲城攻め。費用が掛かるので強襲で陥とす予定。 1550年5月 清洲城を攻める4部隊を戻し、動員して2,500ほどの戦力になった部隊をぶつける。これで数ヵ月後には豆腐のような城になる。これにて隣接する全ての敵を攻撃。攻撃していない部隊は動員。 1550年8月 完成した軍船で伊勢長島城を総攻撃。これを陥落させる。最初の収穫までにこの城を落す事だけは狙っていました。 1550年9月 直轄地29万9625石 城数9 国力は全国三位
1551年5月 尾張、清洲城陥落。織田大和守家滅亡。尾張統一まで後二家。49万3965石で全国一位。 1551年7月 伊勢 神戸家滅亡。長野工藤家、関家と隣接する。長野工藤家は二城もっており、同時攻撃が好ましいので関家を落すまでは放置。 1551年8月 尾張 犬山織田家滅亡。 1551年9月 直轄地56万7272石 城数14 全国一位 尾張のほとんど、三河の一部、伊勢の一部を領有。
1552年9月 直轄地96万3120石 城数23 勢力圏は尾張全域、三河西部、伊勢北部、美濃中央部。
1553年4月 美濃 武田家が攻略中の、土岐斉藤家、苗木城を陥落寸前に奪い取り。武田家の怒りを買い、武田家と国境を接す。この時武田家は全国三位の67万5854石。甲府、信濃の南半分、上野、飛騨、美濃の一部を領有。苗木城には、城規模を最大の5、守備兵、兵糧を最大に入れて、かつ武将に1,000の兵を持たせて配置する。2,500の兵力で守らせる。 長野工藤家の残党、先月滅んだばかりだというのに早速蜂起。 1553年8月 美濃 武田軍、武田信玄自ら攻略中の明智城をまたもや掻っ攫い。運良く明智光秀を捕虜に。どの方面の軍団長にしましょうかね。 萱沼家を滅ぼして三河統一。 1553年9月 直轄地150万9440石 城数35 勢力範囲は尾張全域、三河全域、美濃東部、伊勢の南部山岳地帯を除く大半。
1553年12月 武田軍再度襲来。その数30,000。武田軍の後背には国力全国二位の北条家がいるが、両家の間に交戦の形跡はない。上杉家とはまだ領域を接していない。為か、美濃に大量の兵力を割いてくる。最も、織田家も後背を刺せるのが浅井家ぐらいのもので現状は楽なもの。 琉球に貿易船初出発。 1554年1月 美濃 土岐斉藤家の郡上八幡城を陥とす。これにより美濃−越前間の山岳地帯にて朝倉家と接触。土岐斉藤家は稲葉山城を残すのみとなったので兵糧攻め。 1554年2月 本拠尾張より命令の届く限界 = 三河から陸路と水路で隣接している遠江の城三つを陥としたため、東海地方方面軍を創設。軍団長に水野信元。三河、遠江で捕虜にした武将たちを旗下に9名。所領として三河全域と遠江三城、計53万2000石。命令は、三河、遠江、駿河の侵攻及び内政。 ![]() 1554年2月 東海地方方面軍編成 同月。伊勢口から近江に侵入。水口城を落城させ、山中家を滅亡させる。これにより近江の南半国を持つ、六角家57万石と領を接する。水口城には守備兵の他に武将兵500を入れる。 1554年6月 土岐斉藤家滅亡。稲葉山城が織田家の物に。苗木城をまたもや包囲していた武田軍を追い払い、同時に岩村城を攻撃。武田の勢力を美濃から追い払う予定。美濃方面軍は、三河方面から軍団に投入しなかった8,000の兵力が戻り、4万近い軍勢となる。 1554年9月 直轄地202万3432石 城数44 勢力圏は、尾張、三河の全域、美濃、伊勢の大半、遠江半国、駿河、近江の一部。 今年は武田を攻めて信濃を取るか、浅井、六角を攻めて近江を取るか……美濃の守りを固め、後者を取ります。
計画通り、武田家は篭城により美濃東部で押さえ、落城前に救出させるのみ。西美濃の浅井家に攻撃を仕掛ける。浅井家はこの時48万石。勢力圏は北近江半国と西美濃。 1554年11月 本拠を尾張清洲城から美濃の稲葉山城へと移す。伊勢の軍団に入れなかった前田利家、林秀貞の部隊総数約一万を美濃方面へ移動。 1555年1月 浅井家総力2万で織田家包囲中の美濃、北方城に駆けつけるが、5万の大軍相手に即時撤退。緒戦の敵が最強の敵だったことはよくあるので、緒戦を戦えない時点で、敵の後背を突く者が居ない限り勝ちは決まり。丹羽長秀、那古屋城に登場。 1555年3月 遠江、駿河を侵攻していた水野軍団が、駿河を領している北条家と開戦。北条家は国力第二位の150万石。軍団は60万石。 1555年8月 武田軍、42,660の大軍で苗木城を包囲。守備兵を2,500配置しているため、強襲されません。 ![]() 1555年8月 武田軍本格的襲来
1556年1月 近江、美濃の二面作戦で苦しむ。六角家の城が固く、落ちるまで大量の兵力を置いていると、美濃の東の城が武田軍に落とされてしまう。救援に向うと、兵力の少なくなった近江の攻城部隊が追い散らされてしまう。時間の経過による状況の変化を望んではいけない。愚図愚図していると島津家が巨大化する。次は城が落ちそうでも見捨てると予定する。滝川一益登場。 1556年7月 ようやく、近江、六角家の沢山城を落城させる。水野軍団が駿河で北条家の城を落としていて驚き。 1556年9月 直轄地303万0714石 近江、六角家の止めを刺す予定。六角家、残り55万石。武田軍は信濃から山岳路を経て遠江に侵入。 ![]() 1556年9月 1557年2月 水野軍が全域を征服した遠江が武田軍に城を三つまで奪われた。水野軍は北条軍とも戦っている。被害は拡大すると推測した。方針を変更し、残り35万石にまで追い込んだ六角家を軍団に任せて、反転し、美濃から信濃へ返す刀で反撃すると決定する。武田家、この時全国第五位の国力で91万2000石。 1557年3月 武田軍所領、飛騨、信濃に攻撃開始。 1557年4月 信濃 松尾城を総勢75,000で攻撃。木下秀吉、森可成登場。 1557年5月 全力の武田軍と決戦。これを砕く。松尾城落城。武田軍を遠江と信濃で分断する。 1557年7月 武田家の高遠城を陥落。それを書く価値のある城です。ゲームとしても、信濃重心部に進む良い拠点を奪いました。 1557年9月 342万4511石 武田家は74万5955石 武田家を滅ぼすかは悩むところ。何故なら武田家を滅ぼした場合、北条家、上杉家と国境を接するからです。敵を倒すともっと強い敵が出て来る、という実に物語的な展開です。 1557年10月 九鬼家を滅ぼして志摩統一。軍団からは軍船を取り上げ、紀伊には侵攻できないようにする。
1558年3月 九鬼軍団を編成、紀伊侵攻部隊とする。所領は志摩4万石。武将は2名。 水野軍団、遠江に侵入していた武田軍団本軍を撃破! 武田信玄を捕虜にする。武田軍は次の当主を立てて戦争を継続する。 1558年6月 北畠軍団があっさりと朝倉家の小谷城を陥落させていて驚く。小谷城の城規模は8。天下の堅城。 同時に武田の城を攻めた上杉軍と交戦。敵はただちに撤退。我が軍は信濃の武田野戦軍を砕く。武田家はまたもや新しい当主を立てることに。 1558年9月 直轄地415万2697石 今年度は武田軍に止めを刺し、北条家との戦闘に本軍を投入する。越後の上杉勢へは、新たな軍団を作り、それに押さえさせる。
1559年9月 直轄地461万6279石 武田家は滅亡の王手。滅亡後は武田信玄軍団を作り、越後の上杉家侵攻軍とする。同時に飛騨、越中へと攻め入る織田信清軍団を作る。本軍は、飛騨、甲府、信濃から既に武蔵に侵攻している部隊と合流。本拠もそこに移す。今年度の目標は、武蔵の大部分を切り取り、北条家を弱体させること。
1560年9月 直轄地540万0293石 予定通り武蔵の城を八つ陥落。今年度で北条家を全体で抵抗できなくなるように、分断し、各個撃破する。 ![]() 1560年2月 1560年11月 江戸城落城。これにより、陸路において、北条軍を相模、伊豆と安房、上総、下総に分断。織田信清軍 飛騨の統一を成す。続けて越中に侵攻。越中は、上杉家、本願寺、神保家が領している。これで上杉勢に二面作戦を強いれる。 1560年12月 さすがに飽きたので自動侵攻。全国を統一しました。 戻る |